自分で自分を教える

ピップ・イーストップ著

バジル・クリッツァー訳

英語原文はこちら

 

「自分で自分を教える」ことを教える

 

この稿では、わたしが音楽院という環境で、職業として音楽家を目指す生徒たちを教えるときの、そのアプローチについて述べていきたい。まずはじめに。音楽院での学習の環境や条件を説明してから、そのあとで演奏家が訓練する必要なる事柄や、私の教え方の概要を述べることになる。


音楽院(音楽学校)は、他の高等教育機関と異なる部分がある。それは、音楽院が学問的というよりかは、実践的な学習の場として存在する事だ。もちろん、その教育課程には、学生の学位の一部として学問的な要素もいくつかあるが、学習の焦点は主に、学生が可能な限り高い職業的なレベルまでに演奏技術を成長させていく事にある。このため、音楽院の環境では、楽器のレッスンは、最高レベルの演奏家により、1対1で教えられている。



 

音楽院への入学はオーディションで行われ、基準は非常に高い。それまで楽器を演奏していた教育機関の卒業者のうちのほんの僅かな数の人だけが、音楽院への入学を考慮するに値するだけ熟達しており、そのうち挑戦したひとのさらに一部少数だけが、実際に入学を果たす。一度入学を許可されたら、彼らのする訓練は、卒業したときの技術的・音楽的演奏能力が仕事をするに足りるレベルになるようにするために照準が合わされている。


しかしながら、現実には、可能性を秘めた卒業者に対して、相対的に少ない数しか、空いている音楽の仕事がない。なので、ここでさらふるいにかけられ、最も優れた者たちだけが、プロになるのである。

 

私自身は、ロンドンにある二つの音楽院で、ホルン専攻の大学生を教えている。彼らの学業は四年かかるもので、毎学年の終わりに、演奏上の成長を示すよう、試験を受ける事になっている。卒業に当たっては、「卒業リサイタル」を演奏する必要があり、学位を得るためには高い技術的・音楽的能力を要求される。


卒業するとき、新卒のプロ候補生は、上達を継続するための手段を持っていなければならない。激しい競争のため、勝ち残るための基準は、高いだけではなく、上がり続けているのである。これは、定評のある音楽家であっても、直面せねばならない事実である。


普通、音楽院での数年間を経た後、ホルン奏者はオーケストラに雇用されることで生計を立てることを望む。残念ながら、この段階に来たホルン奏者たちのレベルはとても高い事が多いが、それでも新卒のホルン奏者がそのような仕事を生活のために見つけられることは、かなり稀である。そのような困難を見越して、一部の奏者は大学院に進学したり、大学に守られている間に、演奏分野を専門化しようとする。また、そのようなレベルに達する事はできないと悟り、転職する人たちもいる。だが大部分は、フリーランス生活に入り、仕事のネットワークを構築して生計を立てることを目指す。そして、その多くは、高い演奏レベルを維持し損ねて、脱落していく。


ホルン奏者としてのキャリアの中で、仕事の内容や環境の多くの側面で変化があることが多い。具体的には、歯の位置が動いて、唇の技術に微妙な変更が必要とされることがある。また、楽器・マウスピースを替えたり、演奏レパートリーが変わったり、練習場所が変わったり、練習の可能な頻度や量が変わったりするかもしれない。つまり、今うまくいくことは、数年後にはあまり効率的ではなくなっているかもしれないのである。事実、何年も素晴らしい演奏をしていたホルン奏者が、自分の演奏能力が次第に崩れてきているように感じるケースが多い。これは、ホルン奏者にとっては危険な時期といえる。特に、調べて研究する手段や、演奏技術を総点検したり、再構築したりする資質を持たない場合に当てはまる。

 

楽器の学習にはゴールはないものだが、理想的に言うと、音楽院を卒業した時点で、生徒は教師の助けを二度と必要としなくて済む状態になっているべきである。つまり、生徒を職業演奏家の生活をやっていけるように育てることの中に、生徒自らが、自身の演奏技術とミュージシャンシップの継続的な発展・個人的な成長を続けて行くため、そして問題発見と問題解決のたまの、柔軟で自己分析的な手段を得ることが必須なのだ。この「自己教育」の為に必要なスキルは、演奏家にとって最も価値あるものだが、同時に得るのが最も難しいものの一つでもある。この困難がゆえに、私は「自己教育」はそれ自体ひとつの方法論として、音楽院の訓練期間中にできるだけ深く生徒が身につけるべきことだと信じている。

 

ホルンの演奏は、技術的側面がとても濃密にある。それは、音がグロテスクな騒音ではなく、音楽的な楽音として認識されるようになるだけでも、多くの技術的な取り組みを要する、という意味だ。苦労してそういう能力を身に付けたら、全体的に機能する演奏技術を構成する別個の様々なスキルは、可能な限り安定して信頼の置けるような状態に維持される必要がある。将来の、演奏技術の破綻の可能性・演奏時の大失敗の可能性を最小限にし、演奏を全体としては最高の状態に保つためである。例えば、ピアノのように音を出す事は鍵盤とハンマーの仕組みがやってくれるような楽器とは対照的に、ホルン演奏では、ほとんどの人にとっては「自然」にはできないような、唇と息を使ったやり方で、全ての音をひとつひとつ出すことを要求される。事実、ホルンの場合は楽器はほとんど助けてくれない。ホルンから音楽を導きだすことができる人は、水撒きホースやティーポットを使っても似たようなことができる。排水管と似たようなものであるホルンは、奏者が美しい音を奏でることを補助する「可能性」を持った、共鳴装置として機能するのだ。これは全ての金管楽器や吹奏楽器に当てはまる。
 
 ホルンが最も演奏が難しい楽器の一つだ、というのは今ではすっかり信じられていることだ。確かに、初心者がたったひとつの音をちゃんと演奏できるようになるまで何年もかかることも多いし、音楽的フレーズとしていくつもの音を並べられるようになるまでは、なおさらである。ホルン奏者の唇は、声楽家の声帯と同じように、振動する訓練がされる必要があり、これだけでも難しいのだが、更なる困難がある。声楽家にとっては、口腔が共鳴するので、声帯がするどんな振動でも増幅してくれるが、ホルンは唇の振動のうちほんのいくつかの特定の厳密な振動数(倍音という)しか同じことをしてくれない。ホルン本体が許す振動数と完璧に一致した振動を唇がしなければ、ホルンは美しく鳴ってくれないのだ。こういった倍音の配列は、ホルンの管の長さ(マウスピースからベルの縁まで)に完全に決定されており、現代のホルンでこの長さはバルブによって簡単に変えることができる。バルブは簡単なつくりの装置で、ホルンの長さを即座に変えるよう、作動する。唇の緊張、息と口腔の物理的な諸条件(複雑すぎるので、ここで説明は省く)は、特定の倍音が鳴るように完璧に調整されねばならず、でなければ「ホルンの欲しがる音」と「自分の意図する音」が「ケンカ」してしまう。ホルン奏者は、即座に音を奏したいならば、「音程の空間」の中のどこにどの倍音があるか、完璧に知っていなければならない。こういう意味での「不正確さ」は、酷い音や「ハズレた音」を生み、こういう結果をいつも生んでいる奏者は、いまいるところより良いオーケストラに入ることはできないだろう。ある意味、ホルンの音程を正しく得ることは、弓道に似たところー良い音を1つ奏する事は、濃い霧や強い風をものともせずに獲物の目に矢を当てることと同じだーがあるホルン奏者にとっての生計は、高度な正確さによるのである。

 難しいと悪名が高いだけでなく、ホルンの演奏技術はかなり「目に見えない」ものなのだ。外から見ても、何が起こっているのか分かりようがないのだ。マウスピースは完全に、ホルンの先生がきっと粗探しをしたくなるであろう部分に多いかぶさっている。唇が微妙にやっているかもしれない「良くないこと」のバリエーションは色々あるだろうが、一般的に言ってそれらは、教師自身が同じもしくは似たような問題を経験し解決したことがあり、何がうまく行ってないか、直感や推測を重ねて、色んなヒントから気付く以外に他人からは取り組みようがない。一度、そのような問題が見つかれば、解決はさほど難しくない。大変なのは診断を下す部分なのだ。

 

私が生徒とと繊細な問題を調べていくとき、わたしは生徒に、「解決策を見つけるために、自ら分析し、分析に続いて実験をする」というプロセスにできる限り関わってもらうようにしている。まず最初のステップは、問題を「見て」「聞いて」「感じる」もらうことだ。これは意外と難しいことがある。つまり、「見る」「聞く」「感じる」そのやり方に、根強い習慣があるときもあり、自己欺瞞にすらなっていることもある。録音で自分の声を聴いたとき、びっくりしなかっただろうか?歩く、話す、あるいは楽器を演奏するといった複雑な行為を実行しながら自分で観察していることは、後で客観的に振り返って観察することは、かなり異なることがあるのだ。それなら、自身の演奏のビデオや録音を使うことが解決策になりそうなものだが、時折役に立つことはあっても、普通は頼ることはできない。貴重な練習時間を割くことになるだけでなく、ホルン演奏において最も重要なスキルのひとつである、リアルタイムで正確な自己観察をするという技術を育てないからだ。当然、きめこまかく設定された自分自身の感覚を用いて、ホルンを演奏している最中に、音を精確に聴き取ることを学んだほうが良いに決まっている。この技術の会得は、苦痛を伴うプロセスであることもある。真実はときに痛い思いをさせるからだ。

生徒が、自分がどのように演奏しているかに関して正確な印象を得るには、聴覚でも視覚でも両方でできるだけ精確なフィードバックを必要とする。視覚的情報という側面は、このコンテクストではかなり重要である。なぜなら、あらゆる音楽演奏家にとって、姿勢の悪い習慣が気付かれなければ、結果としての音や音楽に有害な結果を引き起こす可能性があるからだ。このことに関して私は、生徒が少なくとも表面的には演奏に関わる筋肉動作をどのようにやっているか見て気付けるように、鏡を生徒の前に立てることもある。あるいは、鏡で見る事で、「演奏に関わらない」はずの筋肉が干渉していることにも気付いてもらるかもしれない。そして、意識を集中して音が聴けるように、複雑でない、簡単なたった一つの音だけのエクササイズを与えたりする。

こういったフィードバックが積み上げられなければ、ホルン奏者たちの想像力は、自身が出そうとしている理想の音と、現実に出ている音との明らかなギャップを、「自分がやっていると思っていること」の想像図を作って埋めてしまう傾向がある。こういった幻想はかなり不正確である場合があり、練習を深化させようとしたり、あるいは他人に教えようとしたときに、悲惨なことになってしまうことがある。

この具体例を挙げてみよう。金管奏者のあいだで広く信じられていることに、音をはっきりと発音するための、「舌で口蓋に触れる」動作が、打楽器を叩いたりハンマーを振るような動作と類似している、という考えがある。だが実際には舌は、ハンマーではなくバルブのような働きをしているのだ。舌は、息が流れるようにバルブを開いたり、息の流れが止まるようにバルブを開いたりするような働きをしているのだ。このような力学的な働きの誤解に基づいて作られた舌の動きをトレーニングするエクササイズが、最も効率的な練習方法ではないことは、明白だろう。よりよいフィードバックがあれば、こういうふうに誤摩化されてしまったりしないで済むのだ。

幻想や想像からくる誤摩化しは、奏者が自身の演奏技術を力学的にどのように「やっているか」という理解に関してだけでなく、演奏の結果をどのように受け取るかーつまり「どうやって聴くか」にまで及ぶ。どうやら、これには二つの形があるようだ。ひとつめは、音楽を構成する一つ一つの音、ふたつめは音楽的フレーズだ。「単語の発音」と「文章の意味」の関係と同じだ。個々の音の質は、「意図した音」というインプットと、「実際に鳴ったまさにその音」というアウトプットを、洗練された意識を用いて注意深く比較することで観察されるべきである。練習室では、こうなってないことが多いが....。練習室の音響が良い事は役に立つが、上記の観察に要求される条件は、コンサートホールの豊かな反響とは逆だと言えるかもしれない。私は、意図的にレッスン室を「乾いた」響かない部屋にしている。音を分析的に詳細にディテールまで聴くことができるからだ。こういった条件は、大半のホルン奏者が「モロに聴こえる」と言うような状態で、それは豊かい響くところでは隠されてしまうような、ほんの小さな音の不完全さまで聴き取ることができるからである。もちろん、良く響くところでは音に豊かさが加わって、奏者にとっては気持ちの良いものだが、結果として、本当に楽器から現れる音からは目を逸らされてしまうのだ。明確な聴覚的なフィードバックなしでは、本当に美しい個々の音を作って行く事は非常に難しくなる。

 

ああ音楽的フレーズに関しては、実際に聴こえてる事よりは音楽的な意図を聴くいう傾向がある。これは、驚くような事ではない。もし仮に、初心者が想像力を働かせる事なく、自らの音をを客観的にのみ聴いていたとすると、すぐやめてしまうだろう(ちなみに、だからこそ楽器は幼少のうちから始めるのが良いとされているのかもしれないー想像力がまだ信頼のおけるものだからだ)。ただし、教師への依存から脱却するには、生徒は、客観的に聴く能力を磨いていく必要がある

音楽学校への入試準備を受け持つ教師たちは、多くの面で非常に優れていることがある。基礎的な能力を育みながら、音楽への愛と情熱を高めることができているかもしれない。しかしながら、一般的には抜群に優れた演奏能力をもつ演奏家ではないから、そういった教師たちは、現在のプロ演奏家レベルのホルン演奏技術に洗練させて行くのに必要な、非常に高いレベルの自分自身に対する気付き・意識を生徒に教えられていない場合がほとんどだろう。あとになって、生徒が音楽院で専門的に勉強しはじめると、ホルンの演奏レベルを高めるために要求される内観的な自己意識は、予期しなかったものであるだろう。

初心者レベルや中間的なレベルのホルン演奏者を含めて、基礎的な技術的・音楽的能力を作り上げるのには良い指導が必要なのは明白であるが、いずれ、上達するには、演奏者自身が大部分を自分自身でやり遂げねばならないときがくる。音楽院で勉強しているような生徒にとって、「自分で自分を教える」ことが非常に重要である理由の一つは、特に高いレベルで技術的な細かいところを洗練させてゆくときに、自分自身以外が自分に教えるのはほとんど不可能だからである。事実、この件について私は多くの優れたホルン奏者と話し合ったが、彼らはみんな、大部分は自分で身に付けたと感じていて、特により高いレベルでは、数年間音楽院で過ごしたにも関わらずそうなのである。自分自身以外はだれも、自分が楽器を演奏する過程で正確に何が起きているか、はっきり判断するための感覚的なフィードバックを持っていないのである。従って、「自分自身で教える」以外は、 息や唇のコントロールの繊細な事に関しては、直感的に推測しているに過ぎないのである。

興味深い事に、効果のあるホルンレッスンに必要な、「聴く」ための繊細な能力は、演奏レベルの習得の過程で経験した自己観察から直接得られた能力と、まったく同じな部分が多い。実際、わたしなら、「自分で自分を教えること」に成功した経験を持たない教師は、高いレベルの生徒にとって本当に技術的に価値ある事を伝えることは不可能だと主張する。

 

この章では主に技術に関して取り上げてきて、ホルン演奏が非常に技術的に高度なものを要求されることだとも述べた。これは事実だが一方で、バランスを取るためにも、言及しなければならないことがある。それは、音楽的な経験をしたいと望んで聴きに来た聴衆の視点に立てば、ホルン演奏の内部事情などちっとも興味がない、ということだ。当然、演奏には優れた技術が必要とされる。しかし、技術のことを強調するときにある危険のひとつは、「音楽性」と形容される、音楽に対する「感覚」を育む事が無視されることだ。また、スタイルやフレージングといった側面も無視される危険がある。音楽とは、他の言語と同様、自分自身を没頭させ、それに対して愛を育むことによってのみ学ぶ事ができる言語なのである。

 技術的な要求の高い楽器を学ぶ人が覚えておくべき事がある。私たちは楽譜をとても複雑で豊かな空気の振動に置き換えるよう訓練されているが、それはスケッチにすぎないのである。作り上げられた「音楽」の骨組みだけなのだ。作曲家たちは、音楽家たちが、役者が台詞を無味乾燥な機械的な言葉としては言わずに、演技をして意味と表現に満ちた声で話すのと同じように、基本的な構造を記した楽譜に肉付けをし、音楽的意味を与え、生命を吹き込み、解釈するものだと思っている。しかし、残念ながら、ひとはホルン奏者が音楽的に何かを伝えようとせずにフレーズを演奏しているケースに、予想以上に出会うだろう。奏者が、演奏を「する」のにばかり一生懸命で、聴衆には奏者の技術しか聴こえない結果になっているのに気付いていないように見えるかもしれない。これはとても残念な状況である。なぜなら、もし技術が完璧でそれが故に技術が目につかないと、聴くべきところが全くないのである。逆に、技術が欠陥だらけなら、聴衆にはそればかりが耳に届き、批判するのに熱中するだろう。

 音楽を学ぶ人にとって、楽器演奏の技術とは、それが恐ろしく難しくとも、始まりにすぎないのだ。技術は、それ自体が目的であってはならない。根本的な目的は、聴衆を感動させる魔法に満ちた、コミュニケーションに満ちた音楽の演奏なのだ。

脚注:多くの音楽家と同様、私はアレクサンダーテクニークに恩恵を受けている。このテクニークを発見したF.M.アレクサンダーは、この章で述べてきたような「自己観察」の先駆者であり、教師であった。彼は、「習慣的に不正確な自己観察・複雑な身体的動作の神経刺激と身体的遂行」の認識とそれに続く再教育のための洗練された方法論を発展させたことで有名になった。


おわり

 

 

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